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●『銀座の米田屋洋服店』を読む-----その3



こんにちは。
長い引用が続いてますが、みなせんが飽きていないかかなり心配です(^_^)。
時代は昭和、戦争の足音が聞こえてくる時代からです。
1932年には、銀座の米田屋をビルディングに建て直そうという話が出てきます。昭和は暗い時代でもありますが、注文服の米田屋は忙しかった時代。建設中の一時期、家族は銀座三丁目の三ツ間ビルに引っ越した。
この頃、日本橋の白木屋デパート(のちの東急)で、高層ビル火災が起きます。有名な話で下着の歴史の本に必ず出てくるエピソード。ロープを伝って降りようとした女店員たちは、和服の裾の乱れを気にして高所から落ちて14名が亡くなった。以後、ズロース着用が普及したという。

■米田屋ビル完成
1933年4月銀座二丁目に5階建て、地下1階の米田屋ビルが完成。セントラルヒーティング付き、淡いオレンジの斑が入った花崗岩というから洒落ていますね。


IMG_3571新築の米田屋ビル(1933年)■

・新築の米田屋ビル(1933年)
柴田絨店から柴田羅紗店へと名前も変わり、1階北側が柴田羅紗店、南側が米田屋洋服店の店舗であった。

DSC_0163ビル1階の米田屋洋服店本店

・ビル1階南側の米田屋洋服店本店


DSC_0162ビル1階の柴田羅紗店内

・ビル1階北側の柴田羅紗店内

2階は羅紗部の仕事場で、店頭から注文が入ると大きな鋏で生地を切り取り店頭へ落とした。5階は、三之助の家族の住居であった。


IMG_35732階羅紗部の三之助■

・2階羅紗部の三之助
お客が米田屋で服を誂えるとき、羅紗店から生地をとりよせ、5反も10反も見本を見せたという(今だと当たり前ですが、当時はそうじゃなかったのでしょう)。羅紗店の生地は、舶来で渋い色合いで堅く年配向きだったとある。
社長の武治は蒲田の自宅から出勤してきた。
1932年頃だが、洋服を着ている子どもが少ない時代に、米田屋の小僧はオーダーメイドの立て襟服を着ていた。紺に赤いストライプ、黄色のチェック、グレーなど洒落ていた。
イギリスのドーメル社から羅紗の反物が届くと、大きなトラックが店の前に横付けされ、皆で降ろしたといいます。


IMG_3577米田屋の従業員(1934年)■

・米田屋の従業員(1934年)
この頃の三之助の服装は、中折れソフト帽に、三つ揃いの背広、右手にステッキ。
夏は白い麻の背広にパナマ帽、白い靴を履いたそう。今、ほとんど白い革靴を履いている人は見かけませんが、1930年代のホワイトバックスやヌバックなどは白い麻背広に合わせるのですね…。洒落てますが、今だと目立ちすぎかな。

■戦争の時代
1931年に満州事変、32年に上海事変が起こると、国際情勢はかなり危機感があるのですが、巷では切実感がなかったとあります。
1939年には企業合同が進み、神田の日光羅紗店と柴田羅紗店は合併。この頃、長く店を支えた尾崎熊吉が引退。
1940年には、合併した柴田羅紗店神田店に「第十八配給所」が出来ます。国家総動員体制というやつですね。そして、その代わり、銀座の柴田羅紗店はカタカナで「シバタ」にて新装開店。婦人用品のお店に変わったのだ。
この頃、国民服令で、カーキ色の国民服を着用するのが義務となった。米田屋の最初の顧客は東条英機で、佐野忠吉が仮縫いし大急ぎで仕立てたという。最近の研究では、国民服が日本人の洋装化を進ませたといいます。


Tojo_wearing_tie■

・国民服の東条英機(wikipediaから拾った画像ですが、ポケットが横から入る凝った作り。おそらくこの服は米田屋製かなと)
1941年には太平洋戦争が始まり、42年には東京府繊維製品配給会社が発足、東京羅紗切売商業組合はその下で繊維会社から公定価格で服地を販売するようになります。この組合の理事長を武治は務めていました。自由に生地を売り買いする時代は終わります。
1942年には、東京に空襲が始まります。この頃、米田屋は海軍の軍服を製造するようになります。海軍から見本を作るよう指示が出て、納品すると、「素晴らしい」と評価され、品川の海軍衣料廠へと納品しました。
通常、海軍の装備は海軍衣糧廠(いりょうしょう)で、陸軍の装備は陸軍被服廠(ひふくしょう)で製造されたと、資料には出てきます。ですが、実際には、大型の洋服店や靴店の工場がそのまま製造、納品していたのでしょう。軍の監督工場になったという記述があります。
以前、リーガルアーカイブで、「軍靴はどうやって作っていたのですか?」と藤井さんに質問したことがありますが、「ウチが作っていたんだよ」と言っていたのを思い出します。いままで、軍の工場で服や靴を作っていたと思ってましたが、確信しました。民間企業に指定書を渡して作らせていたのですね。
1943年には、米田屋ビルが大倉組に貸し出されることが決まります。店主以外は商業に従事することは出来ず、男子の従業員は全員店を去りました。柴田家は神田小川町に引っ越します。44年に空襲が本格化すると、銀座二丁目も大きな被害を受けます。45年5月の空襲では米田屋以外のビルは一軒残らず焼けてしまいました。


IMG_3590米田屋ビル屋上での恭子と三之助(1943年)■

・米田屋ビル屋上での恭子と三之助(1943年)
そして、孝子と和子・恭子の姉妹は、栃木の那須に三之助の知人・勝本清一郎を頼り疎開します。そして、そのまま敗戦を迎えます。

■終戦後
終戦後、三之助は、元々好きな書店やギャラリー芸術関係などの小売り業を手がけますが、武治の指示で手放します。生地は統制品であったため、服店を営むことは出来ませんでした。
名店であったため、闇市には手を出さなかったとのこと。
このあと、1953年には武治が配給統制会社から戻り、切売り業者や既製服業者へ服地を降ろす元売り業へ転換していきます。
三之助は印刷会社を起こしましたが、うまくいきませんでした。文学に興味があったのですね。
1954年には米田屋ビルが東洋紡へ売却され、米田屋洋服店と柴田羅紗店は銀座から去ることになります。銀座から神田須田町へ移りますが、1956年三之助は丸ビル店の店長になります。そのあと15年間勤めたあと、引退し、1979年に亡くなります。
1980年、銀座二丁目の旧米田屋ビルはついに解体されます。このあと、日本生命の銀座ビルが建っています(現在もあります)。


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・現在の日本生命ビル(伊東屋さんの通りの反対側ですね)
この本が書かれた1992年時点では、まだ米田屋は存在したそうですが、その後どうなっているかはわかりません。(神田須田町の地図をいろいろ調べたのがちょっとわからなかったです)
あとがきには、「明治以来店を構えてきた米田屋は、一般通行人には縁のない、上流階級を顧客とする地味で堅い店だったので、人目に付かなかった」とあります。しかし、和子さんがこうやって本を残してくれたおかげで、激動の時代を駆け抜けた洋服店・羅紗店の活き活きとした姿を知ることが出来ました。この本が、洋服の歴史に興味がある方に読み継がれていくと素晴らしいなあと思います。









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コメント

土鍋 2024/02/11 12:05  編集 URL

No title

形見?か何かで貰った洋服が米田屋製だったことで気になり調べたところ、この記事を見つけました。

私も今もあるのかなと思い調べたのですが、1999年以降の足取りはわかりませんでした。
記事にしてくださってありがとうございます。
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