こんにちは。
最近、どうもうまくebayで良い靴を落とせないでいます。一部の人気銘柄の高騰と、やはり玉数の減少のせいでしょうか。
というわけで、以前、『大塚製靴百年史』(1976)を以下で紹介したのに続き、今回は、日本製靴(現リーガル)の歴史を調べてみました。
●天皇の靴、大塚製靴の歴史ーーその1
●天皇の靴、大塚製靴の歴史ーーその2
今回参考にしたのは、『Steps―日本製靴株式会社社史』(1990年、日本製靴株式会社社史編纂委員会)です。

日本製靴が誕生したのが、1902年なのでおよそ90周年の刊行のようです。この年4月、アメリカのリーガルの商標権を得て、10月には「株式会社リーガルコーポレーション」に社名変更しますので、この本で旧社名との一区切りなのでしょう。
日本製靴の成立は、やや複雑で、大倉組皮革製造所(大倉喜八郎)、桜組(西村勝三)、藤田組皮革製作所(藤田伝三郎)、福島合名の四社が中心となりました。
中心は、日本の靴の父、西村勝三です。佐倉藩出身で、大塚製靴の創業者、大塚岩次郎と同郷です。大塚岩次郎は、西村勝三から靴製造を学びますので、もちろん偶然ではありません。
西村勝三が1870年に開業した「伊勢勝造靴場」は、明治政府からの軍靴発注を見込んでのものでしたが、うまく軌道に乗りませんでした。1871年10月に5000靴ずつ6ヶ月の注文、同年12月には1年で1万靴、1872年には、10万足ずつ向こう10年で注文を得ます。しかし、1874年には、陸軍省から大幅な発注取り消しがあるなど、経営は順調ではありませんでした。これには、戊辰戦争期に余剰発注された軍靴の在庫が発見されるなど、さまざまな事情があったようです。

伊勢勝造靴場のカタログ。日本最初の靴カタログ。
こうした状況の中、実業界の大物、大倉喜八郎が1893年に「大倉組」として銀座に進出してきます。
大倉喜八郎は、新潟県新発田市の出身ですが、新政府軍の兵器糧食の用達を命じられており、政界にふといコネクションを持っています。のちの大倉財閥の草創期ですね。のちの大成建設もかかえる巨大グループです。

若き日の大倉喜八郎
1902年の四社合併については、正確な記録はありませんが、これまた日本経済界の父、渋沢栄一が仲介役になったのではと言われています。
すでに、日清戦争が集結し、日露戦争が始まろうという時代ですね。
それまで、ライバルであったように見える西村と大倉ですが、お互い苦労人であるというバックボーンも手伝い、友情関係を育んでいったのではないでしょうか。
資金面でも潤沢となった日本製靴は、ドイツから機械を導入するなど大量生産の体制を整えていきます。
日露戦争では、陸軍合計で、約100万足の短靴、半長靴15万足、編上靴60万足など、187万足が発注されました(日本製靴だけの数字ではありません)。軍靴の世界では、20世紀初頭短靴が主流だったことがわかります。この本では、日露戦争から編上げ靴に移行していくと書いてあります(!)。軍靴と市民の靴には違いがあったのでしょうか。ここは要調査ですね。
じつは、日本製靴は、大塚製靴に比べ、正確な数字が残っていません。これは、財閥系軍需産業であるため、敗戦時に資料を焼却廃棄したためと書かれています。靴の製造は、機械化や革の発注、労働者の確保など大きな資本が必要だったのですね。
日露戦争後の明治40年(1907)には、創業者のひとり、西村勝三は亡くなります。このあと大倉喜八郎が、指導力を発揮していきます。
大塚製靴の記事でも紹介しましたが、1914年には第一次世界大戦が勃発。ロシアから100万足の発注をうけ、大塚製靴の18万足より多い、55万足を発注うけます。大変な好景気であったようです。日本製靴のあった千住界隈の飲食店は人の山……。いいですねー。
さて、ここまで長々と書いてしまいました……(笑)。なかなかグッドイヤー製法の話に入れずにおりましたが、ついに本題に突入です。
1923年の関東大震災は、大きな損失を日本製靴にもたらしました。しかし、これを機にそれまでの家内制手工業から機械製靴へ変貌をとげます。
すでに、アメリカのボストンにあるU・S・M・C社から、グッドイヤー式製靴機械は、1908年に陸軍被服本廠が、1910年には日本製靴に輸入されていました。しかし、この『日本製靴社史』によると、グッドイヤーによる既成靴の主流化は1920年代だったとあります。やはり、明治草創期をささえた靴の手縫い職人たちが、それまで健在だったのでしょう。
このあたり、日本のモノづくりへのこだわりを感じますね。

グッドイヤーのすくい縫い機と出し縫い機
このあと、日中戦争から太平洋戦争への流れの中で、主に陸軍へ納入していきます。これに対し、大塚製靴は海軍がメインです。
ここで、「日本製靴と大塚製靴の海軍半靴の受注数」をあげておきましょう。
■ 日本製靴と大塚製靴の海軍半靴の受注数
日本製靴 大塚製靴 合計
・1919年 36400 93600 130000
・1927年 72000 108000 180000
・1931年 87800 131700 219500
・1935年 92487 138731 231218
『日本製靴社史』が、『大塚製靴百年史』をとりあげているのが何とも面白い(笑)。海軍だけの資料なので、受注数で負けていてもおかしくないのだが、言い訳がましく、「当時の大塚商店にとって大口受注先である海軍は死守しなければならなかった。そういった意味でこの資料作成は、営業をはげます材料の一つとして参照されたものと思われる」と書いてある。やはり、両者ともライバル関係だったのだ…。
ここまで、グッドイヤーの導入がどういう影響を日本製靴に与えたのか、見てきました。
生産量や効率以外具体的なことはわからなかったですね。これは、これからの宿題としましょう。
いろいろ調べてきましたが、U・S・M・C社が靴製造の近代化・現代化に大きな役割を果たしてきたようです。(ちなみに、この会社当時は、戦闘機なども作るばりばりの軍需会社だったようです……。また、同名の会社がイギリスにもあります。)
最後に、ebayで購入したU・S・M・C社のノベルティグッズと思われる、パンフレットを入手したので紹介します。
上は、1921年の『A Pilgrim Calendar』、下が1929年の『RIVERS LAKES AND MOUNTAINS』です。ピルグリムファーザーズは、16世紀植民のため、アメリカに渡ったイギリスのピューリタン(清教徒)たち。アメリカ人の始祖。
下は、世界中の有名な山や河が取り上げられています。
当時は、こういうのが、お客さんに喜ばれたのでしょうかね。牧歌的な雰囲気を感じさせます。






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